中平卓馬 Nakahira Takuma
The 20th Century Matrix より

 

■中平卓馬■

1977年に出された篠山紀信との共著『決闘写真論』(朝日新聞社)のなか で中平卓馬は70年前後の意識を回想している. 「私にとって,たったひとつの関心は現実をどうとらえるか,とらえるこ とができるかということだけにあった.もうすこし詳しくいえば我々が 日々を生きている,その一瞬一瞬を肉眼でとらえるように,世界と私の出 会いをカメラでとらえることがどうしたら可能かということである.我々 の存在は,それ自体すでに世界との“関係”そのものであるといってもよ いだろう.“関係”ぬきに人間は存在しない.その“関係”たる私が, 日々,一瞬一瞬をいきてゆくこの“世界”と私の白熱する磁場,“関係の 関係”とでもいうべきものをどうフィルムに定着することができるのか, ということである.視線の厚み,世界の肉質をどうしたら,うすっぺらな この紙っぺらに印すことができるか,ということである」. 通常,人は安心して1枚の絵や1枚の写 真を見ることはできる.それらに注 がれる人の眼差しは安定していて確かである.しかし人々が生きてゆくこ の現実においては,人の眼差しは決してそのような安定したものではな い.そのひとつひとつは交錯し,移行しやすく,不確かである.さらにそ れらは折り重なり,記憶がからみ,遠近法が加わり,といった具合に,現 実の眼差しは厚みを獲得し,生きたものとなる.つまり肉化されるのであ る. 中平はこの当時,世界を肉化することをめざしていた.彼をつき動かして いたのは現実の視線の不確かさであり,世界そのものの不確かさをひきず りだし対象化するということである.それを中平はカメラという媒体を通 しておこなおうとしていたのだ.そして,当然のようにそこでは常にカメ ラを覗く私という存在が問題とされていた.世界がどう見えるかを,あく までも私の問題として追いつめていった.自分が,いま,ここで,どんな ふうに世界を見ているのかを,視覚の制度へまで踏み込んでいって検証し ようとしたのである. もちろん世界(対象)も問題になっているのだが,この時点の中平の立場 ではそれはあくまでも「私と世界」という緊張関係の上においてであり, 力点はあくまでも私の側にあったのである.しかし,そうした私の意識 は,『決闘写真論』を書いていた70年代後半という時代においては大きく 崩れてきている. 「ひとたび私の遠近法が確立されるや,世界はそれに従って整備され,秩 序立てられる.すべての体験が,この遠近法を通 して得られる.そして遠 近法にそぐわない体験や遠近法を破ろうとするものはあらかじめ,無意識 のうちに斥けられてしまう.それは私の構造を解体してしまうからであ り,私は常にこのように自己保存的であり,それが我々の日常をかたちづ くっている.写真家もまた同様である.多くの写真家が世界を私の遠近法 でぬ りかためることに一生懸命だった.私の糸によって世界を織りあげ, 私と世界を融合させようとしてきたのだ」. ここで述べられているのは世界(対象)の肉化に他ならないが,70年前後 には中平の写 真行為の主目的だったこの肉化はそれから数年後にはすでに 忌避されるべきものになっているという変化にまず注意しなければならな いだろう.私の肉化の行為はここでは捨て去られようとしている.70年前 後に中平自身によって撮られた写 真はまさに世界の肉化のあかしとでもい うべきものであった.しかし,その数年後に,中平が評価するのはそうし た写真の肉化の行為を無効にしてしまうような写真家たちである.世界を 肉化することなく,むしろ逆に私の遠近法を撹拌し続け,崩壊させること によって世界(対象=物)の側の眼差しのあり様を垣間みせてくれること に成功した写 真家たち,例えばアジェやエヴァンズといった写真家たちに 中平のオマージュは捧げられる. 「それ(アジェやエヴァンズの写真)は,見る者の遠近法もまた同じよう にゆるがし,不安にさせる.だがそのことによって見ることが再び問い直 されることも確かである.なぜなら見るとは,正確には意味で固められた 我々の視線を他ならぬ 見ることによって崩壊させることであり,そこにか つて見ていた,所有していたと信じていたものが崩れさってゆくのを目撃 し,それにかわってまったく新たなものを再発見することであるからだ. 意味の崩壊と再生.見るとは本来,そのようなものである」. 見ることは「私」の「世界」への突出であることを強いメッセージとして 打ちだしていたはずの中平が,ここでは「私」の「世界」への解体と「世 界」の「私」への再統合のサイクルを見ることであると定義し直している この変化が70年代半ばに起こっていったのだ. 中平が使う「旅」という言葉が興味深いのはこの点においてである.それ は「災害」や「事故」と同じように私を解体させる.それは私をちがう場 所へ連れ去り,もうひとつの遠近法がかたちづくられる機会が与えられる からである.「旅」のプロセスのなかで私が崩れ,新たな私が生まれる. その絶え間のない自己を超える行為の総体が旅なのだ.「しかし」と中平 は言う.彼は,異様なもの,異質なものとの出会いを必死に求めながら, それを「旅」ではなく現実の都市に,異郷ではなく日常そのものに求める アンドレ・ブルトンの姿勢をもちだして,彼の「旅」をも断念する.「こ こではないどこか異郷の地を安易に求めようとする傾向」や,「チベット の空への憧れがふと見失ってしまいがちな世界と私との出会い」に注意を 促すのだ.そして,その地点から中平の独特な「旅」への批判が生じてく る. 中平は「旅行者」とは「自由」という名の不在者であるといったが,それ は,いま,ここの現実をないがしろにしているといった観点からの批判で あった.この現実の街をひきうけていないことへの苛立ちからであった. しかし,いま,ここの現実をないがしろにしないかぎり私という構造を解 体できないこともまた確かである.そしてかたくなな私をひきずった旅は いつもバッド・トリップに終わる. いずれにしろ大切なことは,中平が結局,「旅」とは無縁な写真家であっ たということであり,おそらくそこにこそ中平の写 真や言語の本質がある ということだろう.中平はたったひとつの「旅」をのぞいては,終始「 旅」には行かなかった.いや行けなかったのである.そして彼の私は結 局,完全に解体することなく,永遠に澱のなかに閉じこめられた.そして その私は時にふれ,幻のように繰り返し浮上してくる. 「実際に,多少の準備とわずかな決心と,そして金の工面 さえつけること ができるなら,私はもっとそのいくつかの国,いくつかの町へたどりつく ことができただろう.ただひとつの怖れが,いやひとつの確信に近いもの が私を踏みとどまらせた.わたしは私が行きつくあらゆる場所で,自分自 身の顔をみつけだすだろう.アレキサンドリアでもローマンタンでも,私 はあらゆる場所で,私の顔,あるいは私の反転された顔に出会うだけであ ろうと」. 中平にとって私はあまりに根深く,鋭く,硬く,確立されてしまっていた のかもしれない.そして彼はその硬く閉ざされた私によって「旅」を弾劾 する. 「旅はスペクタクルの変貌によって,一瞬私自身から解放し,“自由”を 一瞬でも与えてくれることはできるかもしれない.だがしかし,旅はつい に帰ってくるためだけに旅立つものなのだ.私の旅の経験からいっても旅 は何ものをも救済しはしない.旅は一時的な,まったく一時的な執行猶予 なのであり,だからこそ,そのあとで刑は必ず執行されるのだ.そして猶 予が与えたかりそめの“自由”のゆえに,刑の執行はより苛酷なものにな らざるをえない.それは再び,今度は逃げる場もなく,我々をこのように してある“私”と“世界”とのはりつめた線上にに逆戻りにし,置き去り にする」.(『決闘写真論』) こうした「旅」の解釈については様々な論議がかわされうるであろうが, ひとつだけ触れておけば,中平が考えていたような「旅」とはまったく異 質な旅を,この時代にくりひろげていた人々,彼の旅の体験からはほど遠 い帰ることのない旅へ出かけた人々がいたこともまた確かだということで ある.しかし中平の旅へのこの考えは時代の必然的な産物であった.「 旅」を否定し,拒絶して,「私」と「世界」の間に張られた弦にのしかか る重さにぎりぎり耐え,あえて「私」を屹立させたいと願うことは,中平 が時代の大きな変貌のまさに境界にいたことを知らせる身ぶりでもあった のである.(伊藤俊治)

■参考図書 中平卓馬+篠山紀信『決闘写真論』朝日新聞社,1977

 


 

★『PROVOKE』

わずかな期間ながら1960年代末に突出した写真理論とその実践としての写 真表現を提示した写真同人誌『PROVOKE』は,中平卓馬,多木浩二,岡 田隆彦,高梨豊という4人の同人により,68年11月1日に創刊号が出版され ている.その創刊から30年近くが過ぎた今3号しかないバックナンバーと4 号目ともいえる特殊な出版物『まずたしからしさの世界をすてろ』(田畑 書店)をあらためてたどってみると,その運動(といえるかわからない が)が,それまでの写 真の世界で支配的であった,写真を撮る側の回路か ら一度離れ,写真を撮る者と撮られる者,そして写 真を見る者という3者 の関係のなかで写真が成立しているという事実を再確認しようとする動き があったことがわかる.そしてそのようなプロセスのなかで,この3者の 背後に広がる世界や時代のあり様が,それらを成り立たせている構造が, さらにはその撮られ方,見方の意味自体が問い直されていった. 多木浩二は,こうした60年代末の写 真をめぐる関係の変化のきっかけとな ったものとして,68年に開かれた「写真100年──日本人による写 真表現 の歴史」展と,その出版物である『日本写真史1840−1945』(平凡社)に おける,写真家自身による過去の写真の大がかりな見直し作業をあげてい る.こうしたイヴェントを契機に単に写 真を撮るとか,つくるということ ではなく,写真を見るということがあらたな問題として浮上し,その問題 が写真家のなかへ入りこみ始めたというのである. 「写真100年──日本人による写 真表現の歴史」展はJPS(日本写真家協 会)が協会員だけで手作りしようとした企画で,当時その指導的役割を果 たしていた東松照明が多木浩二と中平卓馬に編集委員としての参加を要請 したものである.実はこの作業のあいまに,2人の間で『PROVOKE』をつ くろうという話がまとまったという.そして中平が岡田隆彦と高梨豊呼び かけ(さらに2号目からは,最初の写 真集『にっぽん劇場写真帖』を出し た直後だった森山大道を誘い),編集助手として柳本尚規,シンパサイザ ーとして詩人の吉増剛造やジャーナリストの天野道映が加わり,創刊へ向 け出発することになった.多木浩二は当時の模様を次のように回想する. 「要するに『PROVOKE』というのは,その当時中平さんとぼくが割合に いろんな形で出会っていて,その出会いの中で,何か自分たちで表現する 場をつくろうということがまず最初にあった.もうひとつは 『PROVOKE』全体を通 じていえるかどうかはわからないけども,中平さ んとぼくとが最初いろいろ話し合っているときのひとつの暗黙の了解事項 は,単に写真の問題というよりも,知的な世界全体の中で写真というか, イメージの問題というのを考えなおそうという姿勢があったと思うんです ね.結局,『PROVOKE』は中平卓馬,岡田隆彦,森山大道,高梨豊とわ たしの5人でやったわけで,1人1人の思い入れとか,その1人1人の思想の あり方は全くちがっていたけれども,内部がある種の騒然とした状態を保 って1年なり,2年なりを持続させることができた.内側から見ればそうい う感じだったと思うんです」. 『PROVOKE』の創刊号は68年秋に出す予定であったが,すこし遅れその 年の冬になった.同人は,多木,中平,岡田,高梨の4人であり,当時, 多木の事務所であった北青山の藤田アパートにおいたプロヴォーク社から 定価500円で出版されている. ページ数は69ページ,正方形に近い四角い判型で,表紙はまっ白で,その 地の白に,黒の文字で大きく「PROVOKE 1」と書かれている.成立の事 情や同人の構成メンバー,その軌跡と展開などを『光画』とくらべてみる と,この2つの写真雑誌の間の30年以上もの時間の断層に様々な日本の近 代の夢や澱みがおりかさなって堆積しているのが透けて見えてくるようで ある. 当時は67年から始まった第2次安保闘争のさなかで,日本の各地でデモや 拠点占拠闘争が繰り広げられていた.68年には原子力空母エンタープライ ズが佐世保へ入港し,成田闘争も激化し,大学紛争が始まり,3億円事件 や新宿騒乱も起こっている.さらに時代の流れを追うなら,69年には東大 安田講堂の攻防で入試が中止となり,大学紛争は全国化し,翌70年には大 阪で万国博が開かれ,よど号のハイジャック事件が起こり,日本はこの 年,ついにGNP世界第2位 となっている. 68年は海外でも象徴的な年である.たとえばチェコでは「プラハの春」 が,パリでは「5月革命」があり,アメリカでは黒人運動の指導者マーテ ィン・ルーサー・キングや,黒人解放に力を入れたロバート・ケネディが 暗殺される一方,ヒッピー・ムーヴメントが一挙に拡大してドラッグ・カ ルチュアがクライマックスををむかえ,ニューロックやニューシネマの起 爆剤となってゆく. 『PROVOKE』創刊号の扉の裏には,中平と多木によって起草された次の ような宣言が書かれていた. 「映像はそれ自体としての思想ではない.観念のような全体性をもちえ ず,言葉のように可換的な記号ではない.しかし,その非可逆的な物質性 (カメラによって切り取られた現実)は,言葉にとっては裏側の世界にあ り,それ故に時に言葉や観念の世界を触発する.その時,言葉は固定され 概念となったみずからをのり超え,新しい言葉,つまりは新しい思想に変 身させる.言葉がその物質的基盤,要するにリアリティを失い,宙に舞う 他ならぬ 今,ぼくたち写真家にできることは,既にある言葉では,とうて い把えることの出来ない現実の断片を,自らの眼で捕獲してゆくこと,そ して言葉に対して,思想に対して,いくつかの資料を積極的に提出してゆ くことでなければならない.『プロヴォーク』が,そしてわれわれが“思 想のための挑発的資料”というサブタイトルを多少の恥ずかしさを忍んで 付けたのは,このような意味からである」. この宣言からもわかるように,当時,彼らを支えていたのは,それまで支 配的だった,「意味」につきまとわれた言葉のイラストレーションとして の写真を否定しようとする衝動であった.特に中平と多木がつくったこの 宣言では,「映像」と「言葉」の関係に注意が促されている.いや言葉を 生みだすものとしての写真という基盤に彼らは固執しようとするのだ.そ れゆえ,中平は「思想のための挑発的資料」を,「言葉のための挑発的資 料」と言いかえたほうがいいとまで書いている. 映像は決して言葉と無縁ではありえず,常に言葉のレヴェルにまといつ き,時としてそれを挑発し,増幅する機能を持つ.言葉を図解するのでは なく,逆に言葉のリアリティをしたから支えるものとしての映像につい て,中平は同時期のエッセイのなかで次のように説明している. 「写真は意識に直接,働きかけ,ある思想なり,観念なりを説得的に伝え るものではない.むしろ意識を基底から支える広大な下意識の領域に訴え かけ,それ自体は言葉(言葉こそ意識なのであるが)となるのではなく, むしろ言葉を挑発し,喚起する言葉のためのひとつの挑発的な資料を提供 する.だから写 真は決して完結した作品であったりしてはならない.いわ んや,あれこれの工夫をこらした作品であったりしてはならない.それは 自ら生きてゆく生のプロセスと他者の生とを時としてつなぐ不完全極まる 資料なのだ.だからそれは絶えず危機的であり,常に未完成なのだ」. つまり彼にとって言葉とは意識であり,写真とは無意識のようなものなの である.意識というメッセージは,無意識というノイズによって支えられ ているのだ.そしてノイズがなければメッセージは伝わらないように言葉 という図は,写 真という地がなければ伝わらない.『PROVOKE』は,い わばその物質性の積極的な喪失を挑発しようとしたのだ.ブレボケの,粗 れた,ゆらぐような彼らの写真の多くも,確乎とした形象を排除するその 非物質性のあらわれととらえうるのかもしれない.(伊藤俊治)

■参考図書 多木浩二『日本写真史1840─1945』平凡社,1971.

 


 

★『まずたしからしさの世界を捨てよ』

1970年代初めから,中平卓馬は何をやっても現実を把握できないという焦 燥感をもつようになっている.「この現実を何とか奪還しないとこのまま 死んじまうよ」や「リアリティがまったくないんだ」といった発言が『写 真よ,さようなら』(写真評論社)に収録された森山大道との対話のなか に繰り返しあらわれているが,現実がないという形の現実が彼らの目の前 にいつのまにかひろがりつつあった. 現在という地点から考えるなら,こうした現実の喪失の背景には,メディ アの変容の問題が複雑に横たわっていたように思う.いわばそのメディア 情況の変容の奥行きと幅のなかで,中平は自分がそうだと思っていた身体 感覚や現実感を失っていったのである. 「写真,およびその他の映像の物理的性格が無媒介的に社会へむすびつけ られてゆくが,それが情報化社会と叫ばれる時代にあって,映像の現実か らの遊離,そしてそこからの物神的浮上を社会的に,そして何よりもまず 我々の意識内部において推進する決定的要因をなしたのではないか.現実 ではなく現実のイメージを現実と錯覚する論理,映像にとどめられた現実 をストレートに現実と混合してしまう我々の歴史的に形成された感覚にそ れは深く関わっている」(「記録という幻影──ドキュメントからモニュ メントへ」,『美術手帖』1972年7月号). 中平は72年の時点ですでにこうした指摘をしていたが,急速な現実の変質 が60年代末から70年代初頭にかけておこっていたことがそのことからもわ かるだろう.ドキュメンタリーとフィクションの溶解,すべての現実の記 録は,現実の記録であると同時にひとたびメディアに通されれば,メディ ア主体の操作を通 じてすべてフィクション化されてしまう.また「セット された現実」,擬似現実は当の現実を超え,新しい自らの意味をもったも うひとつの現実に仕立てあげられてもゆく. 中平が「日付」の問題にこだわったのも,そうした現実の変質ゆえにであ った.芸術も思想も「日付」をないがしろにし,「日付」と「場所」を遊 離してきたところで成立してきたという中平の言葉は,いまここを遠く離 れてしまった身体と現実の問題への言及に他ならない.しかし,おそら く,そうした代替不可能なかけがえのなさ,とりかえしのつかないもの, そこにいた人にとっての個別的な特殊性を内包させている瞬間を求める中 平の営為はメディアの波にあとかたもなく飲みこまれていった.そして数 年後には彼自身こう語らざるをえなくなってしまう. 「今まで,“私と写真”って感じでこだわってきたときに,自分と世界, 現実と自分というふうに2元性でとらえてきたところがあったわけ.最 近,その辺がわかってきた.別 に自分と現実が肉離れしていたわけではな いのね.最初から自分自身の中での単純な自分との肉離れにすぎなかった わけだ.だから,いつも現実という言葉を対比させることによって現実か ら逃げるとか,つらい現実ってかんじでいたんだけど,そうじゃなかった のね.ぼくは今,現実という感覚をあまりもてないんだ」(渡辺勉『現代 の写 真と写真家』[朝日ソノラマ,1975])に収録のインタヴューよ り). 中平はまたこうも書く. 「映像の氾濫するこの社会において,映像は現実のイメージであることを 超え出て,逆に映像が実体化し,現実そのものを縛りあげる.このような 倒錯がいつから生まれたのか.そして私自身が撮ってきた写真を逆に考え た. “ブレボケ”と呼ばれた私の写真を.あれは一体現実であったのか,虚像 であったのか.私はあれこそ現実,私にとっての現実であると信じて疑わ なかった.その理念ぬきに私の写真行為は成立しなかった.だが,それが 1度外に出されれば,それは果 たしてどうなるのか…….(……)そして 今,再び写真を撮り始めた時,私の中で何かが変質していることを,私は 知っている.つまり現実は,世界はそうかんたんにとらえうるものではな いことを.とりわけ,カメラという制度としての視覚を前提にした手段を もってしては」(『アサヒカメラ』1976年「特集=ブレボケはどうなっ た」より「身ぶりとしての映像」). 対象(世界)と撮影者という位置や,現実と非現実という境界がどんどん 曖昧にボヤけてゆく流れのなかに時代はあった.「まずたしからしさの世 界を捨てよ」というテーゼが有効性を持ちえた時代は過ぎようとしてい た.世界はあまり不確かで,とらえどころがなく,曖昧に流れていった. いま,ここの現実,たったひとつだけの現実の世界が,様々な現実が交錯 し,多層化した世界へと移り変わろうとしていた.時代は明らかにそうし た方向へ向かおうとしていたのである.そして中平はそうした状況を認識 していながら,あくまでも自己を確かな,リアルなものとしてそうした流 動的な世界へ突入させようとした.いやそうした状況だからこそ,彼はな おさら自己をかつてなく激しく覚醒させる必要にせまられてゆくことにな るのである.(伊藤俊治)

■参考図書 森山大道『写真よ,さようなら』写真評論社,1972.

 


 

★『新たなる凝視』

中平卓馬は1960年代末から写真を撮り始め,初めから時代の息せききった 衝動を引き受け,それまで築きあげられてきた意味・価値・イメージの星 雲のひとつひとつを疑い,見ることそのものを再検証しようとする全身的 な作業をおこない続けた.その中平が最終的にゆきあたったのは,人間的 意味の亀裂からのぞく裸の事物の気配であった.人間化,情緒化を否定 し,写されたものそれ自身として見るものを見つめかえす物の側からの眼 差し,そして写 真を撮るというのは,そうした事物の思考,事物の視線を 組織化することではないのかという結論にたどりつく.写 真とは私が世界 はかくあるだろうというイメージを求めることではなく,世界を受けとめ ようとすることではないのかと.そのためには世界の擬人化,世界への人 間の投影を徹底して排除してゆかねばならない. こうした中平の個人的な営為は,「日本近代」という文脈のなかでとらえ ることも可能である.中平のあまりに複雑で鋭角的な私は,つまり日本近 代の特殊な状況のなかから絞り出された私は,70年代という日本近代のパ ラダイム変転の時代とともに,脆くも崩れさっていった.中平は日本近代 の敷いたレールの上を,きわめて精密にたどりながら,あくまでそのレー ルの延長線上で,そのレールを転倒させようとした.レールからはみだす ことは考えず,そのレールの延長線上にある壁にぶつかり,その巨大な壁 に向かって小さな火炎びんを投げつけ,傷つき,病み,生きのびた.今か ら考えると,それはまさにドン・キホーテのような行為に見えるが,しか し,その行為の結果 は「誰かが実際にやってみなければ,みせなければ誰 にもわからなかったこと」なのである. 中平は,世界による私の浸食に積極的に身をさらす覚悟と勇気をアジテー ションしたが,結局,あくまでかたくなな私そのものの世界への突き刺さ りをめざした.それは時代と彼個人の必然的な方向だった.その交差が中 平の言う「私と世界の再創造」であったのだ.そしてこの矛盾を引き受け ようと自己を強引にねじまげてしまう.中平自身,そうした思考と行為 が,極限までゆきついていてしまわざるをいないことを気付いていたよう に思う. 「カメラはいうまでもなく“限定された”四角いのぞき穴である.要する にカメラは世界を主体=対象の二元論に還元する近代の所産であることだ けはまちがいない.だが我々は日々を四角 いフレームで限定して対象化 して眺めながら生きているのではない.しかも,見るとはただ眼球だけに 関わるものですらないそのような見ることの洗いなおしを,カメラを通 し て決行しようとしたこと,これはしょせん矛盾撞着をはじめから前提にし ていたのか.そして我々の手に残されたものは,すべて私が生きた生の局 限された一部,しかもその痕跡以外の何ものでもない.せいぜい,我々が 手にすることができるものは,このひとつひとつバラバラな私と世界の “関係”の像だけである」(中平卓馬「身ぶりとしての映像」,『アサヒ カメラ』1976年2月号). そうした矛盾を正当化するためにも,中平にとって言語が何より必要だっ たのかもしれない.後にも先にもこれほど言語に密着していた写真家は日 本にはいないのではないだろうか.いや,中平はもともと言語の延長上に 写真に関わってきた写真家であった.それだからこそ,「言語がどんどん 進んでいかない限り,映像というものもないんじゃないか」「言語のない ところに映像というのは絶対ないわけです」といった発言が出てくるので ある(しかし,人間がいなくても,言語がなくても,映像は存在するのか もしれない).そしてその言語のダブル・バインドが中平のなかに病理を 忍びこませる.83年に出された『新たなる凝視』(晶文社)は,中平にと って,その病理の刻印を通してのみ可能であった痛ましくも,彼の願望を 実現させた唯一の写 真集といえるだろう. 中平卓馬は彼自身の記述によれば,77年9月,急性アルコール中毒にかか って九死に一生を得,12月に退院し,肉体は元通りになったが心はそうい うわけにはいかず,重要なことは何も思い出せず,過酷な精神的不安にさ らされ続けることになる.中平は「全言語欠落状況そのもの」となり,人 と話をすることすら困難となり,時折,昔覚えたスペイン語やフランス語 が突出するありさまであった.そして退院直後,中平は息子とともに沖縄 へ出かけ,撮影を再開し,その時の写 真は『アサヒカメラ』誌上に発表さ れている.このことを彼は「全てを忘却してしまった私自身のやむをえぬ 行為」と記す. 中平は以後,ほとんど毎日,撮影し続けた.自宅近く,横浜駅周辺の 人々,川崎,逗子,長者ヶ崎,荒崎……そして夕刻にはその現像に没頭す る.彼はそうした1日1日の克明な日記をつけている. 「8月10日/午前0時10分だ.父,“母”かなり前から寝てしまった.もう 1時だ.元君,姉,みど里眠り始めた.もう1時20分だ.それから私,妻, 鐐子共に眠り始め,3時45分半,私目覚めた.私,トイレに行き,TELで 時計の進行を的確化し,3時45分近くもどった.もう4時17分だ.それから 眠り始め,私,妻,鐐子共に8時17分覚醒.私,昼寝極力阻止!! 父, “母”,姉,みど里,元君,先に覚醒.姉,みど里出発.“母”,8時32 分過ぎ埼玉へ出発.父,1番先に朝飯を食べ上げた.元君,朝食を食べ上 げた.私,妻,鐐子と共に9時24分から朝食を食べ始め,私,元君の次, 食べ上げた.10時1分半,元君,内田氏宅へ出発.昨夜,現像し上げ,水 洗いしておいた作品5枚,10時13分から乾燥し始め,10時37分乾燥し上が った.作品3枚現像し直さなければならぬ.父1番先に昼飯を食べ上げた. 午後12時8分から私,妻,鐐子30分ほど昼寝していた.父1番先に晩飯を食 べ上げた.私,妻,鐐子と共に7時16分から晩飯を食べ始め,私かなり先 に食べ上げた.7時26分,姉,みど里帰宅.8時37分から私作品現像開始. 10時42分,作品5枚水洗に廻した.11時45分,もう父,“母”寝てしまっ た」(『新たなる凝視』). このように綿々と書き続けられる日記では,起きること,食べること,現 像すること,寝ることが等価に箇条書きに並べられている(しかし「写 真 日記」と銘打ちながらそこでは撮ることの記述はほとんどの場合除かれて いる).そして中平は時間に異常に固執し,直線的な時間の進行を逐次, 電話や時計で確認し,さらに主語(私,妻,母,姉,父)が助詞なしでぶ っきらぼうに,物のように投げだされる.また感情や印象に類する記述は 見られず,数字や順番に対してこまかな注意が払われる.それはまるでロ ボットの機械的な記述のようであり,中平はなるべく言語に対して冷淡 に,即物的になろうとしているように見える. そうした中平の精神の方向は,そのまま写真にも反映している.毎日,自 転車で撮影に出かけ,その過程で,予想もしない対象に出会い,感動し, 動揺した瞬間にシャッターは押された.限定された自らの意識をきっかけ にしながら,その自意識を乗り越え,この世界の諸相を発見した瞬間,そ の諸相をとらえようと懸命になった.そして現像された写真に「奇妙な精 神的ショック」を覚える.こうして撮影された写 真を集めてまとめられた のが83年に出された『新たなる凝視』である.確かにそこには中平の言語 的な,概念的な思考の回路を奪い去った病理により逆に生じてきた身体的 な眼差しの直感力がたたえられている.写 真機の暗箱がめくり返され,閉 じこめイメージ化していた物質性があふれてくる. かつて『PROVOKE』で共に行動した森山大道はこの写真集について次の ように語る. 「中平さんはああいう病いの中で,彼なりに毎日写真を撮ってプリントし ているわけでしょ.僕は中平さんのような病気を病んでいないけども,中 平にない僕の病によってこれまで喋ってきた感覚と意志が芽生えてきたわ けでね.だから彼の『新たなる凝視』は僕個人としてものすごくわかる ね.でもそれは中平を理解してるんじゃなくて,中平の写真集を見ること によって僕が見えてくるんだ.でも結局,中平の現状ってことで,あの本 を誰ひとりとして否定も肯定もできないし,していないよね.その意味で あの本は,1種のサンクチュアリだね.僕と中平とはずうっとながいつき あいだったけど,写真の1点において今ほど2人が近いときはないんじゃな いだろうか」(『写 真時代21』1983年9月号).(伊藤俊治)

■参考図書 中平卓馬『新たなる凝視』晶文社,1983.

 


 

★ 『なぜ,植物図鑑か』

中平卓馬は自らの写真を,1973年に出版された『なぜ,植物図鑑か』のな かでこう語っている. 「なぜ私はほとんど“夜”あるいは“薄暮”“薄明”をしか撮らなかった のか.またなぜカラーではなくて,モノクロームの写真しか撮らなかった のか.さらになぜ粒子の荒れ,あるいは意図的なブレなどを私は好んで用 いてきたのか? それは単に技術的な問題にすぎなかったのか.むろんそ れもあったろう.だがそれを超えて,さらに深くそれは私と世界とのかか わりそのものに由来していたといえるのではないか.結論を先に言ってし まえば,それは対象と私との間をあいまいにし,私のイメージに従って世 界を型どろうとする,私による世界の所有を強引に敢行しようとしていた ように思えるのだ.このあいまいさから“詩”が生まれ,情緒が生まれて きたのである.それはカメラという機械を用いて私が,旧態然たる“芸 術”“表現”を行おうとしたということである」. 中平はこれまでの写真を,私が世界はこうであるとあらかじめ思いこんで いる像であるとし,この私によってとらえられたイメージは具体的には私 による世界の情緒化となってあらわれるという. つまりこれまでの写真は,世界を私が持つ像の反映と化し,世界をあるが ままに表出することを拒否する思いあがりではなかったかと指摘し,自ら の写 真も同様に弾劾するのである.そこには,「人間の知覚の場を同化し やすい小さな正方形に変える暗号解読用格子」としての写 真があらわれる だけではないのかと. 同じように見るということも,これまでは世界を見られるべき対象とし, 自己と対象の間に距離を設定することであり,そのことによって世界を見 られるべき対象とし,自己と対象の間に距離を設定することであり,その ことによって世界を意味化し,所有することだったと中平はいう.しか し,自己と世界の間にあったこの距離を設定することが困難になってゆく ような状況が60年代から70年代にかけての日本において社会的にも,政治 的にも,文化的にも起こってくる.なかでも象徴的だったのは,時代が人 間を断片化する巨大な怪物としてあらわれ始めていたということだろう. 商品の氾濫,事物の氾濫,情報の氾濫により自己のアイデンティティは絶 えず混乱にさらされ,中心が失われ,かつてはすべてが収斂されるべきで あった情報も物質も,テクノロジーの異常な発達によって,その性格を根 本的に変え始めていた.テクノロジーは自己増殖を続け,その結果,人間 は切れ切れになった膨大な物質や情報の提供に対応する自己を失ってゆ く.個が個として成立する時間の軸は切り裂かれ,世界を物語に集約する ことが不可能となり,世界は解体した断片として裸形で人間を襲ってくる ような時代の渦. 中平の70年代の軌跡にはこうした時代状況の変容を,苛酷に引き受けてし まったようなところがある.つまりこの距離感の崩壊を,対象と私との間 に保たれていたはずの位 相の喪失を,時代ごと体で生きてしまったのであ る.そしてもうひとつ忘れてならないことは,中平の私があまりに先鋭で 突出していたがために,その世界の変容の渦のなかに急速に,瞬間的に飲 みこまれてしまったということである.自我の回路が破壊的に大きくゆら ぐ.世界が痛いように自分に突き刺さってくる.それは次のような彼の言 葉からも推し測ることができるだろう. 「国電に乗っていて車窓から景色を眺めていると,ある一瞬からそれらの 事物が眼球に突き刺さってくる.疾走する車中の自分を守るためには(自 分が窓の向こうに飛びだしてしまうような,自分で自分を制御することが できないという不安が強くあった),眼を閉じたまま座席の肘掛けにしが みついていなければならない.そのような知覚の異常がこうじて,事物を 見ることは事物が直接,眼球に突き刺さってくることであり,意識とは事 物が眼球,あるいは網膜を傷つける,その傷痕であるとかたく信じるまで になり,街を歩くこともできなくなっての入院である.まさしく“見る” とは事物が私に向かって突き刺さってくる,その反転した言い回しではな いだろうか」(『決闘写 真論』). 世界が人間をひっくり返し,人間を超越したものとしてあらわれてくる. しかし考えてみればもともと世界とは人間のためになどあるのではなく, 世界は私であるといった回路は人間の幻影にすぎなかったのではないだろ うか.世界と私は,一方的な私の視線によってつながっているのではな く,事物の視線によって私もまた存在している.私は世界を見る.しかし 同時に世界は私に向かって事物の視線を投げ返してくるのである.そこは 人間の営為とは別 個な,私の視線を拒む世界の存在,事物の堅い外皮がた たえられている.(伊藤俊治)

■参考図書 中平卓馬『なぜ,植物図鑑か』晶文社,1973.

 

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【幻の写真集】