奈良原一高 Narahara Ikko
The 20th Century Matrix より

 

■奈良原一高■

1931年,福岡県に生まれる.裁判所の判事をしていた父の影響で50年,中 央大学法学部に入学するが,卒業する頃から美術に興味を抱き始め,54年 同大学卒業後,早稲田大学大学院美術史課程に進む.同年,九州を訪れた 際に接した桜島の黒神村で溶岩に埋もれた土地を開拓する農民や,長崎の 人工炭鉱の軍艦島で生活する炭鉱夫の姿に触れ,人間の存在について考え させられた奈良原は,2年間かかってこの地方を取材した.そして56年, 初めての個展「人間の土地」(「黒神部落」「緑なき島」の2部構成)を 開催し,高い評価を得た奈良原は,写真家として衝撃的な出発をすること となった.またこの頃,グループ「実存者」の結成に客員として参加し (55),真鍋博,靉謳,池田満寿夫,堀内康司らと交友を深め,写真だけ ではなく現代美術をも研究していった.このことは奈良原の自由な発想に 基づく写真表現に影響していくこととなる.そして57年,福島辰夫の企画 による「10人の眼」展に石元泰博,東松照明,細江英公らと共に出品し, 写真家としての評価を確固たるものにしていった奈良原は,58年,北海道 トラピスト男子修道院を取材にした「沈黙の園」,和歌山の婦人刑務所を 取材した「壁の中」の2部構成から成る《王国》を『中央公論』誌上に掲 載するとともに,個展としても発表し,その年の日本写 真批評家協会新人 賞を受賞している.翌59年,早稲田大学大学院を修了した奈良原は,写 真 家によるセルフ・エージェンシー「VIVO」を東松照明,細江英公らと結 成し(61年解散),より自由な表現を求める日本の現代写 真に,決定的な 方向を与える活動を続けた.62−65年にはパリを中心に在欧し,作品制作 を続けて撮りためた作品を『ヨーロッパ・静止した時間』(65),『スペ イン・偉大なる午後』(66)などにまとめている.70年には渡米,ニュー ヨークを中心に4年間滞在し,《ブロードウェイ》等の自由な作風の作品 や,ヨーロッパで制作したものと対を成すような作品『消滅した時間』を 制作すると共に,73年には個展「IKKO」をロチェスターの国際写真美術 館で開催し,74年にはニューヨーク近代美術館で開催された「New Japanese Photography」展に出品して,好評を得るなどその評価を国際的も のにしていった.また,日本の文化を海外からの視野でまとめた『ジャパ ネスク』(70)なども発表し,国内外の高い評価を得ている.帰国後も, 『光の回廊――サン・マルコ』(81),『ヴェネツィアの夜』(85)等の 作品の他,時間的経過を追った数枚の写真をコンピュータで合成した《垂 直の地平線》や,自分のレントゲン写 真を用いた作品《復活》,何気ない 都会の一風景を切り取ってゆく《ポケット東京》を発表するなど,意欲的 な作家活動を続けている. 67年日本写真批評家協会作家賞,68年芸術選奨文部大臣賞,毎日芸術賞, 86年日本写真協会年度賞,等受賞歴多数.(伊藤俊治)

■参考図書 奈良原一高『王国』中央公論社,1971. 奈良原一高『消滅した時間』朝日新聞社,1975. 奈良原一高+松岡正剛対談集『写 真の時間』工作舎,1981. 奈良原一高『空』リブロポート,1994.

 


 

★「人間の土地」展

奈良原一高の軍艦島の写真は,1956年におこなわ れた彼の初めての個展「人間の土地」におさめ られていたものである. この展覧会は第1部「黒 神部落」と第2部「緑な き島」に分けられてい て,第1部は昭和21年の 桜島噴火によって埋没し た村「黒神」の10年後の 姿を撮りおさえたもので あり,第2部は,奇形的 につくられた人工炭鉱島 「端島」,つまり軍艦島 の生活を写 したものであ った.ともに外界と隔絶 された空間や生活圏であ り,奈良原がこの2つの セクションの並置で試み たのは,自然対人間(第 1部),社会機構対人間 のドラマを,現実の状況 を分析し,客観的に見据 えてゆく操作によって, 「人間の側から」ドキュ メントしてゆくことだっ たという.彼は当時の状 況を次のように語ってい る. 「この2種の“土地”を 撮ることによって,今 日,生きることを考えた かったのです.だから単 なる事実の報道の意志を こえて,エッセイとして の意図をこの作品には抱 きました.パーソナル・ ドキュメントと云うべき 方法をめざしたのも当然 でした.周到な“土地” の把握と隔絶された外界 との関連に留意して試み ながら,そこに住む人間 生活を抽象してゆくこと に努めました.そして主 題のなかに,客観を存在 させる希いを持って撮っ てゆきました」. 純戦後派世代の最初の一 員である奈良原は,第2 次大戦後に湧きあがって きた時代の感情を写真映 像の形で視覚化し,その 映像がそれまでの写 真と は決定的に異なっている ことを表明しえた初めて の写真家といえるだろ う. 写真家は写真映像を肉体 的に受け取らねばなら ず,心と肉体のせめぎあ いのなかに生きるのが写真映像の持つ生理なのだ と彼は言い,変転してゆ く自分の意志や希望とい ったものが流れこんでゆ けるような映像をめざし ていった.それは心理の 綾を求めるというのでは なく,動きや存在や空気 を明らかにする,時代の 空間をおりたたむ,サヤ グの言う,「感情的空 気」をたたえた初めての 表現だったといってい い. そしてこの「人間の土 地」展が開かれたのは 「10人の眼」展の1年前 のことであり,ある意味 でこの「人間の土地」展 が「VIVOの世代」とい われる写真家たちを生み だすひとつの大きな起爆 剤となるのである.この 間の事情を,「10人の 眼」展のオルガナイザー である福島辰夫は次のよ うに語っている. 「奈良原の“人間の土 地”をきっかけに,はじ め若い写真家が集まって 展覧会をやらないかとい う発想が生まれ,そこへ 向かって呼びかけ,集ま ることが始められた,み んなで想をねりながら, それがもっと日常的な交 流となり,やがて“10人 の眼”展の実現となっ た」(「VIVOの時 代」,『写真装置』連 載). 「人間の土地」を契機 に,彼らの世代共通の考 え方が確認され,その世 代の表現のデモンストレ ーションの場を構想する のである.彼らの前には 既成の写真の方法ではと らえられない現実の空気 が広がっていた.すでに 戦後という感覚は終わり つつあり,その後,今日 に至る日本の様々な要因 が次第に複雑な様相を呈 して渦巻き始めていた. しかし,そうした急速な 変容にもかかわらず,そ の変化に対応できる写真 の表現は見あたらなかっ たのである.それゆえ, 彼らはお互いに触発され ながら,時代の写真をあ るべきものに変えてゆく 運動としての集団的な行 為を開始しようとした. (伊藤俊治)

■参考図書 福島辰夫「VIVOの時代 3」,『写真装置』第3 号,1981.

 

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【幻の写真集】