荒木経惟 Araki Nobuyoshi
The 20th Century Matrix より

 

■荒木経惟と東京■

ふり返ってみると荒木経惟は「東京」という名をつけられた,数多くの写 真集や写真シリーズをこの20年ほどの間に発表し続けている.ざっとたど ってみても,『東京は,秋』(1973),《私東京》(76),《東京ブルー ス》(77),『東京エレジー』(81),『東京は,秋』(84),『東京写真』(85),『東京劇場』(86),『東京日記』(87)……. そして1960年代後半から70年代にかけての東京の情景を『東京エレジー』 と『東京は,秋』という2つの名作写 真集にして残した荒木は,今また80 年代後半から90年代にかけての東京のラディカルな都市変容を背景に『東 京物語』という傑作を生みだした.そこには「東京」という「物語」を世 界へ返してやる荒木独自の一貫した写 真行為の軌跡を見ることができる. 例えば「それは1972年の秋のことだった」としるされる荒木の『東京は, 秋』は72年の初秋から翌年の初夏まで撮影された写真を中心に構成された 写真集である. 同時期に荒木は「東京」という死に侵された街をよぎる私風景のモンター ジュによる『東京エレジー』という写 真集もつくっているが,『東京は, 秋』のほうがはるかにウェットでしっとり輝いている. 72年という年は荒木が電通を退社し,都市のなかにおける自分の機能的役 割を失い,社会生活から疎外されてしまった年である.そのことによって 荒木ははじめて個の「眼の遊民」として東京を見つめ直すことができたの であろう.そして手工業から機械工業へ移行してゆく時代のなかで,パリ という都市の概念を記録しようとしたウジェーヌ・アジェのように,ある いはまた摩天楼が林立し始めた両大戦間のニューヨークの激変する都市の 表情をとらえようとしたウォーカー・エヴァンズのように,写真をやり直 そうと55ミリのレンズつきのペンタックス6×7を3脚につけ,それをかつ いで東京をめぐり歩き始める. 信号機のある4つ角,皇居の二重橋前,記念塔,団地,ホテル街,個室喫 茶や病院の見える風景,落葉の道路,庭先にはみだしたガラクタ,ラーメ ン屋,日劇……,すると都市と都市とを構成し,都市を表現しているそう した諸々のものがある種の共通する気配をもってたちあらわれてきた. 荒木の一見何でもない風景をさりげなく撮ったような写 真はきわめて正統 的なアプローチによる都市写真でありながら,それはあからさまに都市を 主題にした表面的なものではなく,荒木と東京との関係の澱,荒木という 一個の人間の身体や精神をかたちづくっている一種の地のようなものが写 真に浮かびあがってきたのである.彼の身体を織りあげている何か言葉に できない不明瞭な,不確かなものこそ荒木独自の東京に他ならない.それ は彼がどのように東京を経験してきたのか,経験しているのかにかかって くる.ゆえに,荒木の写 真のなかでは,叙景と抒情がしっくりと溶けあ い,感情と都市がまぐわい,「景色をあらわすこと」と「自分のその場の 感情を伝えること」とが密通する.都市空間とのひそやかな情交がそこに は示されることになる.建物と建物の重なる線と面 の交差が,陽光と暗闇 の境界が,そのことによって荒木の心をかきたて,彼は,街の路地の忘れ られた区画や人気のない公園の茂みのなかの廃墟のような場所にだれも気 付くことのなかったひっそりと息づく時間をみつけ心躍らせた. それらはいずれも激しく動く時代のなかで機能を持たなくなっていった景 色であり,荒木の身体に潜む無意識,あるいは匿名の東京人の底に流れて いる感情が外にあらわれるための窓のように働きだす.(伊藤俊治)

■参考図書 荒木経惟『Tokyo Nude』マザーブレーン,1989.


★『東京は,秋』

荒木経惟の「都市のジャー ナリズム」シリーズの中の1 冊として,三省堂から1984 年10月発刊された写真集. 撮影時期は電通を辞めた直 後,72年9月から約1年間. 退職金で購入したアサヒペ ンタックス6×7,ネオパン SSを使用して撮影した東京 の情景と,妻(陽子)との 対話形式の解説が付いてい る.この時期の荒木が東京 を自由気ままに徘徊して写真を撮るスタイルには,今 日の作品にも通じる共通 の 視線がある.それは人間と 街との関わり合いを具体的 にとらえる姿勢であり,変 貌を遂げる東京のさまを 「記録」に徹っしてとらえ る構えである.このことか ら,写真家,ウジェーヌ・ アジェやウォーカー・エヴ ァンズの作品に,荒木が強 く関心を寄せていたことが 伺える.(和田京子)


★『東京エレジー』

父の葬儀,小さな死としてのセックス,妊娠中絶,往生要集,破れた国 旗,つぶれたビール缶,喪服,首洗い井戸,霊柩車,三島由紀夫のポスタ ー,インコの剥製,乳房のアザ,眼帯,廃屋,仮面 ,あるいは「病院の分 娩室のブルーの桶の中」「学校の実験室の中でみるびんづめの新生児」 「柱も床もテーブルもさわるとそこからばい菌が伝わってきそうな感じ」 「くさったぶどうみたいな色」「脱脂綿と生理帯」「安い旅館のトイレに あるような木のサンダル」「手足の先の異常なつめたさ」…….『東京エ レジー』に編まれた写 真はすべて死を連想させる.あらゆる写真は少なか らずそうした死性につきまとわれるものだが,『東京エレジー』は特異な 配列によって荒木経惟の意識的な「メメント・モリ」のコレクションとな った. この写真群は1967年から72年までの間に撮られた荒木経惟のフォトテーク のなかから「死」中心に構成された写 真シナリオである.その方法は,初 めからある主題をシナリオにまとめ,それをさらにコンテにアレンジし, ここの素材をそのコンテにもとづいて写真にしてゆくという通例のグラフ モンタージュとは異なり,継起的な「私」の生とともに生きられ蒐集され た写真のなかからあるテーマを強めるためにセレクションされた「流れ写真」である.同時期に彼は24冊の黒いラシャ紙の表紙を使って赤糸で和綴 したゼロックスコピーの「写真帖」をつくっているが,『東京エレジー』 はその延長線上にある総決算的な作業といえるだろう. 67年は荒木経惟にとって父長太郎が死去した年にあたり,「この父の葬儀 写真は富士山を背景に母といっしょに撮った記念写 真を複写してつくりま した.これは私の複写の始まりであり,私の写真への接近が始まったので す」(「極秘的写真批評」,『写真批評2』73年6月)と自ら述べるように 彼の写 真の本当の意味での原点となった年であった.『東京エレジー』は それから5年ほどの間に彼の「私」のまわりに,彼の「死」の意識の周辺 に起こった様々な事象の虚構であり,荒木経惟の写真論(リアリズム)と なった. 《さっちん》や《中年女》を発表していた64年から67年までの荒木経惟 が,空間のなかの死性,空間恐怖を認識しえない,カメラを玩具のように あやつる「少年」だったとすれば,この5年間は父の死を契機として, 「写真」とは空気のなかで凌辱された生をすばやく送りかえしてくる死の 仮象なのだと想い,「写真」によって社会化された存在になってゆく過程 だったといえないだろうか. メメント・モリ,すべてが死を連想させる写真の画面に漂う希薄な空気 感,いつのまにか「死」は「死の舞踏」の骸骨のような明確なフォルムに よってではなく,「形体喪失」の意味においてのみ生きながらえることに なっていた.特に60年代後半から70年代にかけての日本は,東京は,人工 世界,工場社会としての激しい変貌を繰り返し,過去との痛切な断絶を感 じだした「季節」である.「東京オリンピックから万国博へ」向かう社会 全体のがむしゃらな突進が生活世界のまわりのランドスケープをかつてな いほど強引に変形させていった.そうした変化に彼は,「父の死」を重ね あわせるようにして写真を撮り,写真は死の表象となり,哀感に変わっ た.写 真を撮ることは死のパースペクティヴのなかへ入りこむことだっ た.ユージン・スミスが『水俣』において工場の廃液によって横すべりし ながら死へ向かってゆく漁村の「風景」を描くことでオーソドックスな 「時代の告発」をしていた同時代に,荒木経惟は「東京」という死にひた された街でおこる私風景のモンタージュによってパーソナルな哀歌を唄っ ていたのである.その「私」の死風景は外へ向かうものではなく,絶えず 自分の内へと返ってくるものであり,見る者もまた同様な死想の,指想の プロセスを通 過することを強いられてしまう.『水俣』が一社会の,ある いは一地域の死しか感じさせないのに対して荒木経惟のエレジーは確実に 「自分の死」を呼びおこすことになるのだ. 季刊『写真映像』の71年夏号の座談会「写 真とエロチシズムをめぐって」 ですでにほのめかされているように(「ぼくはすごくセンチだからおやじ の死が浮かぶね.一番好きだったし,ちょっと,おれが裏切ったようなと ころがあったし,死というとすぐ父長太郎が浮かぶ.だから豪華写 真集を だすとしたらセックスシーンとおやじの葬式をばっちりまぜてやる.すご い古いやり方になっちゃうだろうけれども,照れずにやろうと思ってい る」),『東京エレジー』は「父の死」以後,彼のなかで常に念頭に置か れていたものであり,プリントから構成・レイアウトまで工房的な作業は すべて荒木自身の手によっておこなわれている.そしてそれは,過去の再 生となるばかりではなく「想像力の再生」ともなった.写真の印画方法 に,コマ取りに,構成に,ページ配分に,文字・記号との組み合わせに, 彼の「生」と「思考」のリズムとパターンをはっきりと捉えることができ る. 「仕事」から抜けでてくる断片を,それらがお互いに照らしだすように, 響きあうように,浮遊している状態のままで存在理由を証明できるよう に,新たに整理し,配列し,配置する.そのモンタージュの方法論は,写真による変種的な社会科学である.『東京エレジー』の慣習的な脈絡を無 視した時間と空間の独特な再現法,再構成法をみて,ぼくは73年にアメリ カで出版されたマイケル・レシイによる『ウィスコンシン死の旅(デスト リップ)』を思った(『東京エレジー』のほうが1年早い.最初,72年に 写真評論社から出版される予定になっていたのである). 『ウィスコンシン死の旅』は1890年から1910年にかけてチャールズ・ヴァ ン・シャイクが中西部の田舎町で撮った3万枚以上もの銀板写 真を,レシ イがウィスコンシン州立歴史協会から発見し,セレクションし,それらに その時代の精神病患者の日記,地方新聞に載った強盗殺人や自殺や子殺し や伝染病などの記事,三文小説の抜き書き,産児制限用品の広告ビラや冷 害や倒産解雇を伝える号外の切れはしを様々に配列させて,ある地方のい まだ解きあかされたことのなかった美しくも恐ろしいポートレイトを組み 立てていったものである.その20年はアメリカの歴史でも厳しい景気後退 と経済不況がすすんだ時期であり,アメリカ全体が「アメリカン・ナーヴ ァスネス」という陰鬱な「病気」にかかっていた時代だった.シャイクの 写真はその流行病を明確に写 しだしている.邪悪な「病気」は地域を麻痺 させ破壊するばかりではなく,自然の法則をも逆さにしてしまい,老人よ りも妊婦のなかのまだ見ぬ胎児に死をふきかけ,親より子を早死にさせ, 生まれてまもない赤子を親に殺させていった.社会の「病気」がグロテス クで暗い運命の環境をつくっていることをむき出しにしてしまう.去勢さ れ伝染病にかかって皮膚を狂わせた馬のボディーや髪を振り乱した精神病 者の絶叫肖像,小さな棺おけにおさめられた赤ん坊,花飾りの祭壇,蛇を 首にまいて喜ぶ貴婦人や義足の老夫や普通 の家庭の人々のあまりにも打ち 沈んだ家族写真を次から次へと眺めていると,この写 真集は病理学的な社 会の病状申告写真であり,写真とは「病気」なのではないか,とも思えて くる.親たちが子供たちに自分の血をつなげられないと考え,時代が子供 たちを生きのびらせないだろうと予測し,自らの手で殺してしまったのも 当然なのだという気がしてくる.(伊藤俊治)

■参考図書 荒木経惟『東京エレジー』冬樹社,1981.

 


 

★『 美登利』

あまり知られていない荒木経惟の写真集に『美登利』という薄い白いシン プルな写真集がある.70年代初めから現在にいたるまで,荒木経惟は女を 被写 体に写真集を撮り続けてきたが,多くの場合,その女たちは裸であっ た.しかし,この写 真集のなかの女は決して裸にならない.美登利という 名の若い女性の肖像写真,彼女の部屋や職場周辺でのスナップがなにげな く,オリジナルプリントを思わせる精密な印刷でおさめられているだけ だ.次々と衣装を脱ぎかえてゆくコスチューム・プレイ,見る者はその正 装の女と日常の淡々と過ぎ去ってゆく順序に,なにか不思議な暗号のよう なものを感じてしまう.荒木の撮る女たちを見るたびに,いつもその肉体 と背景,配置にいいしれぬ懐かしさを憶えたものだが,『美登利』ではさ らにその感覚が増幅される仕掛けになっている. 現在の女たちが,荒木のレンズを通過することによって,初めて「日本の 女」に戻ってゆく.うわべの仮装をすべてはぎとられ,自分の本質的なも のを探りあてられてしまう.パンク・ファッションに身を固める,ケバケ バしい化粧のディスコ・ギャルも,ボディコン・ギャルやバイリン・ギャ ルも,知らぬ間に「日本の女」を,その後ろに控えさせてしまう.女たち は,過去に戻ってゆくのだ.逆に,『少女世界』などで展開されるよう に,荒木が少女たちを撮ると,女の子たちは瞬間的に成長して妖艶な「日 本の女」に早変わりしてしまう.女の子たちはしっとりした,蜜のような 感情をしたたらせる. 「ページをめくってゆけば,読者は美登利に14回見つめられる.そしてブ ルースが聞こえる」.『美登利』につけられたこの言葉のなかの「ブルー ス」とは「日本の女」の最深の根の抒情であり,「日本の女」が生み,は ぐくみ,堆積させてきた無数の歴史の幻影に他ならないだろう. 荒木について,「イコンタの涙」のなかで,野島康三と荒木の同質性を指 摘したことがある.野島は1910年代から30年代まで,定点観測のようにし てとらえた「女」のシリーズで,大正から昭和にかけて日本の女が根源的 に変わってゆくさまを,淡々と追っているのだが,彼のこの20年以上にも わたる写 真行為は結局,変わってゆく女たちを自らの写真のなかでその中 心へ戻そうとする身ぶりではなかっただろうか.70年代から90年代へ至る 荒木の写真行為も同じようにしてとらえうるだろう.そこでは「日本の 女」が暴露され,「日本の女」の秘められた性の輝きが明らかにされる. そこには「日本の女」の空気が何重にもたたみこまれている.(伊藤俊 治)

■参考図書 荒木経惟『天使祭』太陽出版,1992.

 

 

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【幻の写真集】